母の事

思うこと

母に久し振りに会ったのは今年の4月。

11年振りだった。

11年も離れていたら何時の間にか母に対する負の感情が無くなっていた。

そんな日が来るなんて思ってもいなかった。

私が中学の入学式を終えてすぐ、母は蒸発した。

ただの蒸発ではない。

多額の借金を残しての蒸発・・。

行方の分からない母を必死で探す父。

毎日鳴り止まない借金返済の催促電話・・。

その頃の私は、学校での生活だけが救いの場だった。

あの頃の友達には本当に感謝している。

皆に迷惑を掛けて出て行った母を私が嫌っていたのも当然だと自分でも思う。

それから3年後、母は私が入学した高校に会いに来た。

昔は新聞に高校の合格者が全員実名で掲載されていたから

それを見て私が入学した高校を調べたらしい。

どうにかして子どもに会いたかったのだろう。

でも私の気持ちは複雑だった。

あれだけ家族に迷惑を掛けておいて、よく会いに来れたな・・と・・。

それからたまに母に会う様になった。

会いに行けばお小遣いが貰えるから。

父には「お小遣いちょうだい。」なんて言えなかったから。

20歳くらいまではたまに会っていたかな・・。

それから二人目を出産するまでの9年間は会わなかった。

2人目を出産したとき、母から自宅に電話がかかってきた。

電話番号は誰かに聞いたのだろう。

泣きながら「たまには孫に会わせてね。お母さん寂しいから。」と言われた。

同じ親の立場として物凄く腹が立った。

都合が良すぎる。

散々家族を苦しめておいて、自分が寂しくなったら電話してくる・・。

一度だけ子ども達を見せに行ったけれど、それから10年程連絡を取らなかった。

借金のことなどをきちんと説明し、家族に謝罪してほしかった。

それが出来ないのならもう会いたくないと、ずっと思っていた。

人間として当たり前のことが出来ないのなら・・。

それから10年後に会ったのは、実家の近所の古くからの知人に、母に会う様に勧められたから。

5年くらいは子ども達を連れて会っていた。

外で色々とご馳走をしてくれたので、子ども達は喜んでいたから。

私はというと、どうでも良かった。

母は少し非常識な所があって、それを自分でも気付いていない。

そういう所も母の嫌なところ。

それをきつめに注意したことがあった。

そうしたら、その後母からの連絡がぱったりと来なくなった。

それまでも私からは連絡することが無かったから、以後11年間連絡が途絶えた。

母はもしかして死んだのかもしれないとも思ったけれど、こちらからは連絡はしなかった。

今年の3月、母が久し振りに連絡をしてきた。

私が電話に出なかったら、もう私に連絡するのを諦めようと思っていたと言っていた。

そして普通に色々話した。

母は喘息の緩和のために始めたカラオケの話などを嬉しそうに話していた。

もうすぐ発表会があると話すので、私は見に行くと言った。

発表会当日・・。

母の住む町までは車で2時間以上かかる。

あんなに嫌っていた母に会いに、引きこもりの私が2時間も車を運転して行くなんて、自分でも驚いた・・。

母がドレスを着て嬉しそうに歌う姿を見て、私も嬉しかった。

今までは母の笑顔を見ると無性に腹が立っていたのに、なぜが嬉しかった。

母と疎遠になった11年という月日が、私の心の傷を癒してくれたのか・・。

それとも、子育てが終了した私に、母を母としてではなく、一人の女性として遠くから見る心の余裕が出来たからなのか・・。

私は母を一生死ぬまで受け入れる事が出来ないと思っていた。

子どもを産んでからはその思いが尚更強くなった。

よく、人は自分で親を選んで生まれてくるという・・。

私はどういう理由であの人の子どもとして生まれてきたかったのか、考えても考えても分からなかった。

母が蒸発してから40年という年月が流れ、今思うことは、人は過ちを犯すということ。

それは偶然が偶然を呼び、思いもしない結末に陥ることもある。

私もたくさんの過ちを犯してきた。

母を責める事が出来るような立派な人間じゃない・・。

みんな同じなんだと・・今だから思える・・。

だからといって許すための努力などするべきではないと思う。

私も母を許さなければ、受け入れなければと努力し、そうできない自分を責めたりしていたこともあった。

でも人を許し癒す前に・・自分の心が癒されなければいけないのだと・・心から思う。

許せなくてもいいんです・・。

だって自分も辛い思いをたくさんしたのだから・・。

いつか許せる日が来るまで、その日をじっと待つ・・。

それだけでいいのです。

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